暗い色調、浅いピント、低く鳴る劇伴。誰かが意味深に振り返り、真相を告げる直前で次の動画へ続く。縦型ドラマの宣伝には「スマホで映画品質」という言葉が似合う。しかし見終えた印象が映画の予告編だけを何本も見た感覚なら、それは品質ではなく未完成である。

短い尺では、人物を一瞬で説明し、最後に強い反転を置く必要がある。だから不倫、復讐、正体の発覚、立場の逆転が繰り返される。映像は豪華でも、人物はオチを運ぶ箱になる。続きを押させる技術だけが磨かれ、見終えたあとに残る場面がない。

映画みたいに見えることと、映画のように物語が残ることは違う。

横長映画の縮小版では勝てない

縦画面では、顔の距離、指先、メッセージ画面、上下の視線が強く見える。本来は映画館とは違う文法をつくれる。ところが横長作品の照明とカメラワークを縦へ詰め込み、「映画みたい」という評価を最上級にしてしまう。

その瞬間、縦型は永遠に映画の弟分になる。制作費をかけるほど本家へ近づき、近づくほど「なら映画を見ればいい」と言われる。新しい形式を名乗りながら、古い形式の権威を借りている。

離脱されないことより、忘れられないこと

最初の一秒、三秒ごとの刺激、最後の引き。視聴維持率は作品を届けるために必要だが、数字を守る設計だけでは全作品が同じ呼吸になる。アルゴリズムへ最適化された結果、一本ごとの人格が消える。

縦型ドラマに足りないのは映画らしさではない。縦でしか成立しない沈黙、距離、時間を発明する覚悟だ。予告編のように次を見せるだけでなく、一分後に画面を閉じても残る一場面をつくらなければ、作品ではなく連続広告のままである。

出典・編集注記

個別作品への批判ではなく、映画風の質感だけを価値として売る縦型ドラマの傾向を論じています。

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