Royal Shakespeare Companyが10月1日、2027年シーズンでヴァージニア・ウルフ『Mrs Dalloway』とスザンナ・クラーク『Piranesi』を舞台化すると発表した。前者はゾーイ・クーパー脚色、タマラ・ハーヴェイ演出で4月16日からSwan Theatre。後者はサミ・イブラヒム脚色、ネッド・ベネット演出で、巨大な迷宮と内面世界を劇場へ持ち込む。
約100年離れた二作を“内面を舞台で探る”一本の軸へ束ねた企画は明快だ。同時に、映画化前の人気小説や古典の題名へ観客を頼る安全策にも見える。RSCが上演困難を口にするほど、その困難自体が販売コピーになる。
上演困難は宣伝文句ではない。小説の中身を劇場へ移す理由そのものを舞台上で証明せよ。
意識の流れは、台詞を増やせば現れない
『Mrs Dalloway』は1923年の一日を歩きながら、クラリッサとセプティマス、街の他者の記憶が交差する。原作の力は事件の多さではなく、視点が滑る文体にある。登場人物へ独白を割り振るだけなら、読者の運動を説明へ変えてしまう。
RSC公式は人物が現実と記憶を行き来し、互いの思考へ飛び込むと説明する。重要なのは装置の巧さより、戦争後の傷、階級、クィアな欲望を誰の声で現在へ渡すかだ。
迷宮は、豪華な美術の勝利ではない
『Piranesi』の家には無数の広間、海、彫像、空がある。舞台化はデザイナーを誘惑するが、巨大セットで驚かせれば、語り手が知識を奪われた孤独と支配の構造は背景になる。見えない世界を全部見せない勇気が要る。
ベネットが“やり方が分からない、だからやる”と応じた逸話は格好いい。だが分からなさを演出家の英雄物語へ変えるな。観客にも迷い、推測し、誤読する時間を残して初めて原作の形式へ触れられる。
文学ブランドで財政難を隠すな
RSCはコロナ期の融資を2040年まで年120万ポンドずつ返済すると説明し、財政は厳しい。『Matilda』級の原作物が支える必要は理解できる。一方で新作劇作家の育成も掲げるなら、有名題名の客を無名の新作へどう流すかまで示すべきだ。
シェイクスピア劇団が小説を扱うこと自体は裏切りではない。問題は、困難な文学の権威を借りて挑戦した顔をすることだ。
同じシーズンには『Coriolanus』『Richard II』『Romeo and Juliet』も並び、RSCは古典劇団の看板を手放していない。小説二作は客寄せの別枠ではなく、シェイクスピアの独白と何がつながるかを示せる。『Mrs Dalloway』の時計、『Piranesi』の記録帳を小道具で終わらせず、観客の時間感覚を変えられるか。二作は精神的な傷や認識の揺らぎも扱う。没入の宣伝だけでなく、内容案内や途中退出を整えることも挑戦の一部だ。
上演困難は宣伝文句ではない。小説の中身を劇場へ移す理由そのものを舞台上で証明せよ。迷宮と意識を見世物にした瞬間、RSCは文学を読まずに飾っただけになる。
出典・編集注記
Royal Shakespeare Companyの公演ページと2027年シーズン発表、The Guardianの2026年10月1日付記事を参照。『Mrs Dalloway』は2027年4月16日〜6月12日、Swan Theatreで上演予定です。






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