男が女を演じ、その女が男を装う

Royal Shakespeare Companyが『お気に召すまま』を男性だけの配役で上演している。Daniel Evans演出、Jonathan GroffがRosalind、Fisayo AkinadeがCeliaを演じ、11月7日までStratford-upon-Avonで公演予定だ。Rosalindは劇中で男装する。男性俳優が女性を演じ、その人物が男性に見せかける三層の仕組みが、観客の目の前に現れる。

シェイクスピアの時代にも女性役を男性が演じた。だから「昔へ戻した」だけとも言える。しかし現在の観客は、性別をめぐる表現や権利の議論を知っている。歴史の再現を掲げる配役は、その議論から自由ではない。誰が誰を演じるかは舞台上の技巧であると同時に、制作側が誰へ役を渡したかという現実の選択だ。

森への変身と、舞台の停止

RSCが公開した写真と現地評によれば、厳しい宮廷から緑の丘へ切り替わる美術が公演の大きな転換点になっている。初日の上演では装置の不具合で長時間の中断があり、再開後の変化を観客が見届けた。これは取材者がその場で見た経験ではない。複数の評に共通する記述として、舞台の企画がどこに重心を置いたかを読む材料である。

森は抑圧から離れ、名前や役割を試せる場所になる。女性役を男性が演じることも、その自由を増幅しうる。一方、衣装と仕草だけで性別を笑いに変えれば、解放のはずの森に古い物真似が戻る。現地評はGroffとAkinadeの関係に温度を見いだす一方、ロマンスの深まりや終盤の速度には評価が分かれる。華やかな配役は作品の答えではない。

復古は問いを消さない

全員男性という条件は、歴史的形式の引用にも、現代のクィアな読み直しにもなれる。二つは両立しうるが、どちらかを宣伝文句にしただけでは芝居にならない。Rosalindが身を隠すことで得る自由と、女性が舞台へ立てなかった歴史の不自由を同時に見せられるか。そこがこの配役の核心だ。

現地評には装置の事故を上演の象徴として読むものもあるが、偶然の中断を演出の成果に数えるべきではない。舞台に戻った俳優とスタッフの仕事は評価できても、事故が毎回起きるわけではないからだ。写真で確認できる美術、公式に示された配役、複数の批評が伝える受け止めを分けて考える。それが未見の観客にも、上演の魅力と限界を誤解なく渡す方法になる。

舞台写真やレビューから上演全体の出来を断定することはできない。それでもRSCの選択へ問うべきことはある。「古典だから男性だけ」で思考を止めるな。「多様性だから革新的」と先に褒めるな。森へ出た登場人物が役割を選び直すように、観客にも配役の意味を選び直させること。形式を懐古品で終わらせない力は、そこにある。

出典・編集注記

出典(2026年10月9日確認):RSC公式公演資料、The GuardianとFinancial Timesの現地評。出演・上演期間と舞台の構成を照合。筆者は実演を鑑賞しておらず、公開資料に基づく企画批評です。

SHARE