10月3日に90歳となる作曲家スティーヴ・ライヒを祝う催しが、ロンドンのSouthbank Centreで開かれた。9月27日には障害のある奏者とない奏者からなるParaorchestraが『Music for 18 Musicians』を演奏。指揮者チャールズ・ヘイズルウッドの集団は、会場の空間も使ってこの反復の大作へ向き合った。
ライヒの節目にParaorchestraが選ばれたことは象徴的だ。しかし「多様な奏者が名曲に挑戦」という感動の説明だけでは、肝心の音が消える。誰が舞台へ立てたかと同じくらい、どんな編成と配置が作品の聞こえ方を変えたかを語るべきである。
多様な奏者を舞台へ置いたことを褒めるだけでは、彼らの音楽を聴いたことにならない。
アクセシビリティは、善意の飾りではない
障害の有無を混ぜた集団は、クラシックの標準的な身体像に問いを投げる。楽器、譜面、動線、リハーサルの方法を調整することは、既存の舞台へ誰かを例外的に入れる作業ではない。演奏を成立させる設計そのものを作り直す行為だ。
しかも『Music for 18 Musicians』は、複数の奏者が脈動と変化を共有する曲である。一人の英雄的な独奏より、互いの時間をどう渡すかが作品を決める。Paraorchestraの存在を福祉の成功談で終わらせれば、その集団がこの曲に持ち込む音楽上の判断を取り逃がす。
ライヒの名を借りて、過去だけを祝うな
九十歳の作曲家を顕彰する催しは、代表作の再演に傾きがちだ。初演当時の革新を繰り返し語れば、安全な現代音楽史になる。だが反復の構造を今の奏者がどう引き受けるかこそ、生きた作品の問題だ。Paraorchestraを迎えたなら、その編成が原典への忠実さと何を交換したかを議論できる。
もちろん現地へ行っていない読者に、批評記事だけで音響の細部を断言することはできない。GuardianとFinancial Timesが報じた催しの位置づけ、公式の演目と配置を手がかりに、評価の言葉の向け先を問い直している。祝祭の成功を数字や拍手の大きさへ還元しないためだ。
称えるなら、演奏家として称えろ
障害のある演奏家に対し、到達したことだけを称える拍手は、ときに専門性を奪う。厳しい音楽批評を免除するのも、過度に感動を要求するのも対等ではない。Southbank Centreが示した舞台の選択は、次に続く通常公演の編成へ波及してこそ意味を持つ。
ライヒの反復音楽は、同じ材料が少しずつ違う結果を生む。クラシック界も同様に、入口を少し広げた美談で満足せず、採用、制作、評価の手順を変える必要がある。
障害のある奏者を「困難を乗り越えた」と書けば、技術も音色も美談に消える。音楽判断と演奏条件を記す。
多様な奏者を舞台へ置いたことを褒めるだけでは、彼らの音楽を聴いたことにならない。Paraorchestraを“包摂”の写真にするな。スティーヴ・ライヒの曲を変えた演奏家として、正面から論じろ。
出典・編集注記
Southbank Centreの公式日程と資料、Guardian・Financial Timesの9月28日付批評を参照。現地公演を見聞きしたような演奏評はせず、編成と批評の語り方を対象にしました。






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