『個人主義』という言葉は、日本では妙に冷たく聞こえる。自分のことは自分でやれ。他人に迷惑をかけるな。国にも会社にも頼るな。でも、本来のリベラルな個人主義は、むしろ落語の世界に近いのではないか。
『粗忽長屋』の八五郎は、とにかく粗忽だ。行き倒れを兄弟分の熊五郎だと思い込み、生きている本人まで『お前は死んでいる』と連れていく。まともな社会人としては不適格だが、落語は八っつぁんを矯正しない。『普通になれ』と言わない。粗忽な奴は、粗忽なまま長屋にいる。
八っつぁんが最後まで八っつぁんでいられる社会を守ること。それが、落語から考える自由なのかもしれない。
ミルの自由は、孤立する権利ではない
J・S・ミルの『自由論』も、勝手に生きて孤立しろとは考えていない。他人に危害を与えない限り、趣味や価値観、奇行まで含めた個性を社会が簡単に潰すな、という思想だ。研究上も、ミルは個人主義を利己的な無関心と同一視しない。人間は機械ではなく、自分の仕方で成長する生き物だという発想である。
これ、かなり落語である。八五郎の粗忽は迷惑だが、誰かを傷つけるから排除されるわけではない。長屋は欠点を直す学校ではなく、欠点を抱えたまま暮らす場所だ。
仕事を休んだら、まず家まで見に行く
『大工調べ』では、与太郎が仕事に来ない。現代の会社なら勤怠管理で終わりそうだが、棟梁の政五郎は家まで様子を見に行く。家賃滞納で道具箱を取り上げられたと知れば、金を工面して大家と掛け合う。働けない理由を本人の怠慢だけにしない。
『芝浜』の勝五郎は酒に溺れて仕事を休む。それでも女房は社会不適合者と切り捨てず、もう一度働けるところまで付き合う。怒る。騙す。支える。ここにあるのは、自己責任とは逆向きの世話焼きだ。
自由なのに、孤独ではない
働く日もあれば、休む日もある。粗忽な奴も、酒飲みも、与太郎もいる。誰かが失敗すれば隣人が口を出す。金も貸す。怒る。助ける。でも、その人間そのものを共同体から追い出さない。
現代政治は『自助か公助か』『自由か規制か』と二択にしがちだ。落語の長屋はもっと雑である。個人は好き勝手に生きる。その代わり、困ったら周りが勝手に首を突っ込んでくる。自由なのに、孤独ではない。
もちろん江戸時代がリベラルで平等だったという話ではない。身分制度も家父長制もあった。これは、落語が残した人間観の話だ。多様性を属性や制度だけで語らず、仕事を休む、変なことを言う、失敗する、昼から酒を飲むという、もっとくだらない個人の単位から考えたい。
助ける側も、いつまでも正しいわけではない。棟梁だって腹を立て、女房だって嘘をつく。制度ではなく、互いの不完全さを知った人間が、その都度なんとかする。長屋の自由はそこにある。
リベラルとは、全員を『正しい市民』に揃えることではない。面倒くさい個人を、面倒くさいまま置いておく余白を守ることだ。八っつぁんが最後まで八っつぁんでいられる社会。それが、落語から考える自由なのかもしれない。
出典・編集注記
『粗忽長屋』の筋は、よせなび・Web千字寄席の解説を参照しました。『大工調べ』の与太郎が家賃滞納で道具箱を押さえられ、棟梁の政五郎が助けようとする筋は日本伝統芸能TIMESなどの解説を参照しました。『芝浜』の勝五郎が酒で仕事を休み、女房に起こされて立ち直る筋は落語あらすじ.comの解説を参照しています。J・S・ミルの危害原則と個性・生活の実験に関する説明はStanford Encyclopedia of Philosophyの『John Stuart Mill』を参照しました。江戸時代が平等な社会だったという主張ではなく、落語の人間観から現代政治を考える編集部の批評です。カバー画像は実際の落語・人物・会場を撮影したものではありません。






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