Netflix『Monster: The Lizzie Borden Story』が配信された。1892年、米マサチューセッツ州で父アンドリューと継母アビーが殺害され、娘リジー・ボーデンが起訴された事件を、ライアン・マーフィーとイアン・ブレナンのアンソロジーが再構成する。
史実でリジーは1893年に無罪となった。ところがシリーズは、彼女と使用人ブリジットが殺害を実行した筋へ踏み込み、史実にない別の殺人、性的関係、後年の再会まで創作する。ここではNetflixの公式解説と公開済み各話の記述、Peopleの検証、Guardianの論考を比較し、演技や全編の映像を見たようには論じない。
真実より面白い創作をしたいなら、実在女性の名前ではなく、架空の怪物に責任を負わせろ。
“解釈”ではなく、人生を書き換えている
実話ドラマに創作は必要だ。記録のない会話を補い、時系列を圧縮し、テーマを見える形にする。だが本作の変更は接着剤の範囲を超える。存在しなかったとされる鳩小屋、無関係の殺人を試運転にする筋、父が使用人を妊娠させる設定まで足し、物語の因果そのものを作り替える。
とりわけ無罪評決を受けた人物を、作品内では実行犯として描く選択は重い。法的事実と文化的イメージの差を検証するのでなく、長年の俗説へ豪華な映像を与える。視聴者の記憶には、判決文より俳優の表情と血の演出が残る。
女性の怒りを語りながら、女性の主体を奪う
Guardianの論考が示すように、女性の殺人者は男性より稀だからこそ、怪物、犠牲者、復讐者という型へ過剰に回収される。本作は家父長制や抑圧を説明に使い、リジーとブリジットの関係へ解放の物語を与える。現代的で、理解しやすい。
しかし本人が残していない欲望や関係を付け足し、それを“女性の声”として売れば、沈黙を尊重したことにはならない。作り手が実在女性の空白へ、現在の観客が好む政治性を代筆しただけだ。抑圧された女性を救うために、彼女の人生を素材として支配する矛盾がある。
史実解説を別ページに置いても遅い
反論はある。これはドキュメンタリーではなく、題名から怪物譚だ。NetflixもTudumで史実との差を説明し、視聴者には調べる入口がある。だが訂正ページを読む人より、本編だけを見る人の方が多い。ドラマで断定し、外部記事で注釈する設計は、強い嘘と弱い訂正を別売りしている。
必要なのは創作禁止ではない。事実から離れるほど架空名へ変える、あるいは各話の画面上で何が創作かを示すことだ。実在事件の知名度と検索需要を借りるなら、史実への責任も作品内で引き受けなければならない。無罪は脚本家が外してよい小道具ではない。
真実より面白い創作をしたいなら、実在女性の名前ではなく、架空の怪物に責任を負わせろ。『Monster』が暴いた最大の怪物はリジー・ボーデンではない。無罪評決さえ“退屈な史実”として踏み越える配信ドラマの食欲だ。
出典・編集注記
Netflix Tudumの作品・史実解説、Peopleの2026年9月20日付ファクトチェック、The Guardianの9月20日付論考、CBS Newsの事件史解説を参照しました。リジー・ボーデンは1893年に父と継母の殺害事件で無罪評決を受けています。本文は公開済みシリーズ、公式説明、複数資料を比較した資料レビューで、編集部員の全編鑑賞を装っていません。画像は実在のリジー本人や事件現場を再現していません。






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