9月4日、東野圭吾原作の映画『白鳥とコウモリ』が公開された。松村北斗と今田美桜が、容疑者の息子と被害者の娘を演じる。監督は岸善幸、脚本は向井康介。上映時間は145分。
2時間25分。普通の映画なら、十分に長い。
それでも「足りない」という感想が出る。
公開直後のレビューには、重厚な人間ドラマや俳優陣を評価する声がある一方、原作で描かれた人物同士の関係が省かれた、真犯人の動機を納得する材料が少ない、という指摘も見られる。
奇妙な話だ。145分も観たのに、まだ人物描写が足りない。
でも原作は、犯人を当てて終わる話ではない。自供から始まり、被害者遺族と加害者家族が、親の罪と人生の続きを背負わされる。事件の答えより、答えが出た後の人間の揺れが本体だ。
映画は筋を進める。小説は、人が止まっている時間まで書ける。
長編小説を映画にすると、まず枝葉を切る。次に説明を減らす。テンポは良くなる。だが最後に削られやすいのが、「この人がなぜそこまでしたのか」という面倒な時間である。
『白鳥とコウモリ』が145分でも長く、145分でも短いのは、その矛盾を抱えたまま映画になったからだろう。ミステリーだけを求めれば長い。人間の動機まで求めれば足りない。
犯人を見つけるには145分も要らない。でも、人が罪を背負う理由を描くには、145分でも足りない。
出典・編集注記
2026年9月4日公開の映画『白鳥とコウモリ』について、公式サイト・予告編・作品情報と公開後の複数の鑑賞者レビューを照合した公開動向レビューです。CUT A TELL編集部が劇場鑑賞済みであるかのように、個別の演技や映像を独自評価する記事ではありません。145分は劇場案内、人物描写や原作からの省略に関する反応はFilmarksと映画.comの公開レビューを参照しました。






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