宮下鉄工所は、昨日と同じ音を立てていた。
金属を削る音。
何かを打ちつける音。
入口の横に軽トラックが停まっている。
真帆と井口が車を降りると、工場の奥から男が出てきた。
作業着、首にタオル。
白髪が増えている。
宮下浩一。
五十八歳。
十二年ぶりに見る顔だった。
「真帆ちゃん?」
「ご無沙汰してます」
浩一は一度、真帆の顔を見た。
それから井口を見る。
「そちらは…」
自分に向けられた視線に気づいた井口が応える。
「井口です」
「ああ、どうも」
浩一は軍手を外した。
「こっち」
工場の隅に小さな事務所があった。
*
六畳ほどの部屋に机とパイプ椅子。
壁にはカレンダー。
棚にはファイルが並んでいた。
何度も来たことがある。
紗季が小学生の頃、ここで宿題をしていた。
「コーヒーでいい?」
「大丈夫です」
浩一が笑った。
「恵子も昨日、無理やり何か出しただろ」
「麦茶を」
「だろ」
井口が少し笑う。
浩一は缶コーヒーを三本持ってきた。
「結局出すんですね」
井口が言った。
「うちはそういう家なんだよ」
一本を井口へ渡し、真帆にも渡した。
「ありがとうございます」
浩一が向かいに座る。
「杉原さんの話」
「はい」
真帆は手帳を開いた。
「杉原達也」
「そう」
「当時二十七歳?」
「そのくらいだったと思う。若い方だったから」
「仕事関係?」
「うちの得意先の営業の方だよ」
「得意先?」
「そう。仕事を発注してもらってた会社の担当者」
「会社名は覚えてます?」
「覚えてるよ」
浩一が会社名を言った。
真帆が書く。
「今も取引あります?」
「ない。会社はあると思うけど、うちはもう何年も付き合ってない」
「杉原さんは?」
「今どうされてるかは知らないな」
「最後に会ったのは?」
浩一が考える。
「紗季がいなくなる少し前だったと思う」
浩一は缶コーヒーを開けた。
「俺、一回杉原さんに話したんだよ」
「何を?」
「娘が怖がってるって」
真帆は顔を上げた。
「直接?」
「直接」
「杉原さんは何て?」
「驚いてたよ。そんなつもりはありませんって」
浩一は缶を持ったまま続けた。
「学校の近くにいたのも、たまたまだって。駅で会ったのも、たまたま。こっちの方に仕事で来ることもあるからって」
「信じた?」
浩一は少し黙った。
「信じたというか」
「はい」
「仕事でお世話になってた方だからな」
「仕事では?」
「ちゃんとした人だったよ」
「どういう人?」
「時間は守るし、連絡も早い。こっちのお願いにも丁寧に対応してくれた。若いのにしっかりした人だなと思ってた」
真帆は書く。
「変なところは?」
「特になかったと思う」
「本当に?」
「俺が気づいてなかっただけかもしれないけど」
浩一は机を見る。
「今なら何とでも言えるけどな」
真帆は何も言わなかった。
「紗季は、どのくらい怖がってました?」
「恵子から聞いた」
「本人からは?」
「一回だけ」
「何て?」
「杉原さん、またいたって」
「どこに?」
「駅だったかな」
「それで?」
「気にすんなって言った」
浩一は笑わなかった。
「仕事で近く通っただけだろって」
工場の奥で機械が鳴った。
「紗季は?」
「何も言わなかった」
「怒ったりは?」
「しなかった」
「それ以降は?」
「俺には言わなくなった」
真帆の手が止まる。
浩一は缶コーヒーを見る。
「俺さ」
「はい」
「昨日、恵子から聞いたんだよ。紗季、家に帰りたくないって言ってたんだって?」
「山岸奈緒さんには、そう話していたようです」
「俺らが嫌だったんじゃないんだよな」
「記録を見る限り、家族との不和はありません」
「じゃあ」
「杉原さんが自宅を知っていたからだと思います」
浩一が息を吐いた。
「そうか」
真帆は続ける。
「杉原さんは家に来たことがあります?」
「あるよ」
「仕事で?」
「そう。最初は」
「最初は?」
「発注の確認とか、納品の打ち合わせとかでね」
「その時、紗季と会ってる?」
「何回か」
「話してた?」
「普通に」
「どういうふうに?」
「おかえり、とか。学校どう、とか」
「紗季から話しかけることも?」
「あったと思う」
浩一が顔を上げた。
「だから、余計に俺は分からなかったんだよ」
「何が?」
「紗季が最初から嫌がってたわけじゃない」
真帆は黙って聞く。
「普通だったんだよ。杉原さんが来たら挨拶して。何回か話して」
「それが途中から変わった?」
「そう」
「いつ頃?」
「分からない」
「杉原さんが何かした?」
「それも、当時はちゃんと聞かなかった」
浩一は自分で言ってから口を閉じた。
「すまない」
「謝る相手、私じゃないでしょ」
「……そうだな」
井口が黙って手帳に書いている。
「杉原さんが学校の近くにいるって話が出たのは、失踪のどれくらい前です?」
「一か月もなかったと思う」
「何度くらい?」
「俺が聞いたのは二回か三回」
「家の近くでは?」
「恵子から昨日聞いた。俺は知らなかった」
「杉原さん本人には、一度注意しただけ?」
「注意というか、お話はしたよ」
「その後は?」
「来なくなった」
「仕事でも?」
「担当を変えてもらった」
「会社に言ったんですか?」
「いや、杉原さん本人に」
「担当を外れてくれって?」
「まあ、そういうことをお願いした」
「杉原さんは?」
「分かりましたって」
「揉めなかった?」
「全然」
浩一は首を振る。
「むしろ、こちらこそ申し訳ありませんって言われたよ」
「それで?」
「それで終わったと思った」
「でも紗季は、まだ怖がっていた」
「そうだったんだろうな」
しばらく誰も話さなかった。
機械の音だけが聞こえる。
「失踪したあと、杉原さんのことは警察に話しました?」
「話した」
「誰に?」
「担当の刑事」
「名前覚えてます?」
浩一が真帆を見る。
「小田切さん」
真帆のペンが止まった。
「覚えてるんですね」
「忘れないよ」
「杉原さんのことも?」
「全部話した」
「小田切さんは何て?」
「調べるって」
「実際、杉原さんから事情は聞いてます」
「だろ」
浩一は頷いた。
「あの人はちゃんとやってくれたよ」
真帆は顔を上げる。
「そう思います?」
「思うよ」
迷いはなかった。
「何度も来たし」
「ここに?」
「うちにも来た。恵子にも何回も話聞いた。俺の会社関係も全部洗ってくれた」
「杉原さんのことも」
「そう」
浩一は缶コーヒーを飲む。
「あの人だけだったな」
「何が?」
「最後まで、紗季がまだ生きてる前提で話してくれたの」
真帆は手帳を見た。
「他の人は違った?」
「口には出さないけど分かるよ」
浩一は言った。
「一週間、二週間って経ってくると、質問が変わるんだよ」
「どう変わりました?」
「家出する理由はなかったかとか。恨まれてなかったかとか。川とか山とか、よく行く場所はないかとか」
真帆は何も言わなかった。
「小田切さんだけは、見つけますって言ってた」
「……そうですか」
「真帆ちゃんも知ってるんだろ?」
「はい」
「今も警察?」
「もう辞めてます」
「そっか」
浩一は少し寂しそうに言った。
「一回礼言いたかったんだけどな」
真帆は缶コーヒーに触れた。
まだ開けていなかった。
「杉原さんの写真ってあります?」
「写真?」
「当時の」
「ないと思うけど」
「名刺とか」
「さすがに十二年前だからな」
浩一が棚を見る。
「会社の資料なら、もしかしたら」
立ち上がる。
「古いの、二階の倉庫に残ってる」
「今見ても?」
「いいよ」
*
十分ほどして、浩一が厚いファイルを持って戻ってきた。
「これくらいしかなかった」
机に置く。
見積書。
納品書。
請求書。
十二年前の日付。
紙が少し黄ばんでいる。
井口と真帆でページをめくる。
「ありました」
井口が止めた。
一枚の名刺がホチキスで留められていた。
杉原達也。
営業部。
会社名。
携帯番号。
「これ、借りられます?」
「好きにしていいよ」
「ありがとうございます」
真帆は名刺を確認する。
「当時の写真はないか」
「ないな」
浩一が言う。
「警察の資料にはあるかもしれないけど」
「確認します」
「真帆ちゃん」
「はい」
浩一が少し迷った。
「杉原さんが、紗季に何かしたってことなのか?」
「まだ分かりません」
「今回の人が殺されたことと関係ある?」
「それも分かりません」
「じゃあ、何で十二年前のこと調べてる?」
真帆は答えるまでに少し時間がかかった。
「山岸奈緒さんと紗季が、いなくなる直前まで一緒にいたことが分かったからです」
「それだけ?」
「今は」
浩一が真帆を見る。
「何か隠してないか」
「捜査中なので言えないことはあります」
「紗季、生きてるのか?」
昨日、恵子にも聞かれた。
「分かりません」
「電話のことは聞いた」
真帆は顔を上げた。
「恵子から」
「はい」
「紗季の番号なんだって?」
「そうです」
「誰がかけた」
「分かりません」
「電話は?」
「出ません」
浩一は机の上を見る。
「恵子、期待してるぞ」
「分かってます」
「俺もしてる」
真帆は黙った。
「でも」
浩一が言った。
「期待していいのか?」
真帆はすぐには答えられなかった。
「今は、何も言えません」
「警察っぽくなったな」
浩一が少し笑った。
「昔はもっと、分かんないことでも分かるって言う子だったのに」
「十七だったから」
「そうだな」
浩一は笑ったまま、少しだけ目を伏せた。
「紗季も十五だった」
真帆は手帳を閉じた。
*
工場を出る。
井口が助手席に乗りながら、名刺のコピーを見る。
「杉原達也。当時二十七」
「うん」
「紗季さん十五」
「うん」
「十二歳差」
「計算できるんだ」
「できますよ」
「良かった」
「馬鹿にしてます?」
「してない」
「してる顔です」
真帆がエンジンをかける。
「まず十二年前の杉原の聴取記録」
「はい」
「当時の写真があるなら出してもらう」
「今の住所も?」
「確認」
「勤務先は?」
「それも」
井口が名刺を見る。
「杉原が犯人だと思います?」
「思わない」
「早いですね」
「まだ名前が分かっただけだから」
「でもストーカー」
「ストーカーだった可能性が高い」
「同じじゃないですか」
「違う」
「はい」
真帆が車を出す。
「あと、佐伯」
「そっちもありますね」
「山岸奈緒が十年以上前の映像を探していた」
「杉原が紗季さんを追ってたのも十二年前」
「まだ繋げない」
「はいはい」
「二回言わせる?」
「一回で分かってます」
井口が窓の外を見る。
「でも、繋がったら嫌ですね」
「何が」
「十二年間、全部そのまま残ってたみたいで」
真帆は前を見る。
「残ってるものもあるよ」
「例えば?」
信号が赤になる。
真帆はブレーキを踏んだ。
「電話番号とか」
井口は何も言わなかった。
信号が青に変わった。
車を出した。






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