*

本部に戻ると、村瀬が席にいた。

真帆は黒川から控えた電話番号を書いた紙を差し出した。

「山岸奈緒の客です」

村瀬修は紙を見る。

「佐伯?」

「名字だけです。山岸さんを盗撮していた可能性があります」

「可能性?」

「本人がそう思っていた、という証言です」

「動画は?」

「違法サイトに出ていたらしいです。現物はまだ確認できてません」

「番号は店の予約に使われてた?」

「はい」

村瀬が井口を見る。

「店から任意で?」

「店長から提供してもらってます」

「じゃあ照会回して」

「はい」

井口が紙を受け取る。

村瀬は真帆を見る。

「盗撮と殺人は分けろよ」

「分かってます」

「十二年前も」

真帆は一瞬だけ黙った。

「分かってます」

「ならいい」

村瀬は自分の机に戻った。

井口が小声で言う。

「分かってないと思われてますね」

「うるさい」

「俺じゃないですよ。村瀬さんが」

「聞こえてるぞ」

村瀬が言った。

「すみません」

井口が頭を下げた。

*

その日のうちに、佐伯の名前までは出なかった。

電話番号。

予約履歴。

奈緒の勤務記録。

防犯カメラ。

並べても、すぐに答えになるものはない。

真帆は何度か自分のスマートフォンを見た。

紗季からの着信。

正確には、紗季の番号からの着信。

それ以降は何もない。

かけ直しても、出ない。

留守番電話。

それだけだった。

「水城さん」

「何」

「帰らないんですか」

「帰るよ」

「さっきから三十分くらい帰る人の姿勢じゃないです」

井口はコートを着ていた。

「先帰っていいよ」

「じゃあ帰ります」

「どうぞ」

井口が数歩歩く。

止まる。

「本当に帰りますよ」

「帰れば」

「引き止めないんですね」

「何で引き止めるの」

「いや、なんとなく」

「早く帰れ」

「お疲れさまでした」

「お疲れ」

井口が去った。

真帆は机に残った資料を見る。

佐伯。

まだ名字しかない。

紗季。

番号だけが残っている。

奈緒。

もう本人には聞けない。

真帆は資料を閉じた。

*

翌朝。

井口が紙を持ってきた。

「出ました」

真帆が顔を上げる。

「佐伯?」

「はい」

紙を受け取る。

佐伯徹。

四十歳。

予約に使われていた番号の契約者名と一致していた。

「偽名じゃなかったね」

「意外と素直」

「住所は?」

「あります」

「行く?」

「そのために持ってきました」

「珍しく気が利く」

「珍しくは余計です」

*

佐伯の住所は、駅から十分ほど歩いた住宅街にあった。

二階建ての古い木造アパート。

外壁はところどころ色が剥げ、鉄製の外階段には錆が浮いている。

全部で六部屋。

「ボロいですね」

井口が言った。

「聞こえるよ」

「まだ誰にも言ってないです」

「建物に」

「建物に謝るんですか」

「知らない」

二人で階段を上がる。

二階の一番奥。

203号室。

表札はない。

真帆がインターホンを押した。

反応がない。

もう一度。

「佐伯さん」

真帆がドア越しに呼ぶ。

「警察です。少しお話を伺いたいんですが」

中から音がした。

何かにぶつかったような音。

井口が真帆を見る。

「いますね」

「佐伯さん?」

返事はない。

今度は足音。

部屋の奥へ走っていく。

「井口」

「はい」

「裏」

井口はすぐに階段を下りた。

真帆はもう一度ドアを叩く。

「佐伯さん。開けてください」

返事はない。

部屋の中で、窓を開ける音がした。

*

「佐伯さん!」

裏から井口の声がした。

真帆は階段を駆け下りる。

アパートの裏手。

洗濯物を干すだけの狭いベランダ。

その手すりを、男が跨いでいた。

スウェット姿。

裸足。

佐伯徹。

「待って!」

井口が下から言った。

「警察です。降りてきてください!」

「来んな!」

「そこから飛ぶ方が危ないです!」

「うるせえ!」

佐伯が下を見る。

二階。

地面。

そして井口。

「やめろ!」

佐伯が手を離した。

「え?」

次の瞬間。

佐伯が落ちてきた。

「うわっ!」

まともに井口の上に着地した。

二人が地面に倒れる。

「井口!」

「痛っ……!」

真帆が駆け寄る。

佐伯は転がるように起き上がった。

裸足のまま走り出す。

「おい!」

井口も起き上がる。

「大丈夫?」

「大丈夫じゃないですけど、逃げてます!」

佐伯はアパートの脇を抜け、そのまま道路へ飛び出した。

クラクション。

甲高いブレーキ音。

「危ない!」

走ってきた乗用車が急停止した。

佐伯の身体すれすれ。

ボンネットに手をついて、よろける。

「馬鹿野郎!」

運転手が窓を開けて怒鳴った。

佐伯は答えず、そのまま道路を渡ろうとする。

だが、一瞬足が止まった。

「佐伯!」

その隙に井口が追いついた。

腕を掴む。

「離せ!」

「逃げないなら離します!」

「何なんだよ!」

「警察!」

「何もしてねえよ!」

「だったら二階から飛んで車に轢かれかけるな!」

佐伯が腕を振りほどこうとする。

真帆も追いついた。

「佐伯徹さん?」

「……そうだけど」

真帆が身分証を見せる。

「水城です。警視庁です」

「何なんだよ」

「今日は話を聞きに来ただけです」

「だったら先に言えよ」

「言いました」

「聞こえなかった」

「警察って聞こえたから逃げたんじゃないですか?」

佐伯が黙る。

井口が腰を押さえながら言った。

「あと、俺の上に落ちましたよね」

「知らねえよ」

「知らないは無理がありますよ」

「井口」

「はい」

真帆は佐伯の足を見る。

裸足の裏から血が出ている。

「その足、先にどうにかした方がいいですね」

「平気だよ」

「血出てます」

「だから何だよ」

「部屋、戻れます?」

「勝手に入る気か」

「あなたがいいと言えば入ります」

佐伯は二人を見る。

舌打ちした。

「……少しだけだからな」

*

203号室。

中は二Kだった。

玄関を入ると小さな台所。

その先に六畳ほどの部屋が二つ続いている。

古い畳。

壁には黄ばんだ跡。

奥の部屋から、さっき佐伯が逃げたベランダが見えた。

物は多かった。

机の上にノートパソコン。

その横に外付けの記憶媒体が何台か置かれている。

棚には段ボール。

真帆は見るだけにした。

触らない。

佐伯は台所で足を洗った。

「救急箱あります?」

井口が聞く。

「流しの下」

「借ります」

「勝手に開けんな」

「じゃあ自分で取ってください」

「面倒くせえな」

佐伯が救急箱を出す。

井口は腰を押さえながら見ていた。

「そっちも大丈夫です?」

佐伯が言った。

「心配してるんですか」

「してねえよ」

「ですよね」

真帆は佐伯を見る。

「山岸奈緒さん、本当に知らないんですか」

「知らない」

「店では佐伯さんの名前で予約されています」

「同じ名字なんているだろ」

「電話番号も一致してます」

佐伯の手が止まった。

「……客だっただけだよ」

「さっき知らないって言いましたよね」

「本名まで知らなかった」

「奈緒さんは源氏名がナナです」

「そうだよ。ナナ」

「じゃあ知ってる」

「客としてな」

「最近、奈緒さんと揉めました?」

「揉めてない」

「電話は?」

「してない」

「奈緒さんは、あなたに動画を消せと言っていたそうです」

佐伯の表情が消えた。

「何の話だよ」

「盗撮」

「知らねえ」

「奈緒さんの動画がネット上に出ていた」

「だから?」

「本人はあなたを疑っていた」

「勝手に疑ってただけだろ」

「昔の動画も持ってる、と言われたそうです」

佐伯は救急箱を閉じた。

「もう帰れよ」

「十年以上前の動画もあります?」

「知らねえよ」

「奈緒さん、昔の映像を探してたみたいなんです」

「俺に関係ない」

「じゃあ何で逃げたんですか」

「警察が来たからだよ」

「普通は警察が来ただけで二階から飛びません」

「普通って何だよ」

佐伯が立ち上がる。

「俺は人殺してないからな」

部屋が静かになった。

井口が真帆を見る。

真帆は佐伯から目を離さなかった。

「私、人殺しなんて言いました?」

佐伯の口が止まった。

「……ニュースで見たんだよ」

「何を?」

「女が死んだって」

「山岸奈緒さんが?」

「そうだよ」

「どこで見ました?」

「ネット」

「どの記事?」

「覚えてねえよ」

真帆は少し黙った。

「今日はこれ以上聞きません」

「だったら帰れ」

「また話を聞かせてもらいます」

「何も知らねえって」

「そうなら、それを確認するだけです」

真帆は立ち上がった。

井口も腰を押さえながら続く。

玄関まで来たところで、真帆は振り返る。

「佐伯さん」

「何だよ」

「次に警察が来ても、ベランダから飛ばないでください」

「逃げねえよ」

井口が言った。

「あと車にも気をつけてください」

「うるせえ」

「俺の上にも落ちないでください」

「井口、行くよ」

「はい」

ドアを閉めた。

*

階段を下りながら、井口が腰を押さえている。

「病院行く?」

「今さら優しいですね」

「一応」

「一応なんだ」

「歩けてるから」

「人が降ってきたんですよ」

「見てた」

「助けてくださいよ」

「どうやって」

「それは分かんないですけど」

一階まで降りる。

「で」

井口の顔が変わった。

「人殺してない」

「うん」

「俺ら、殺人って一言も言ってないですよね」

「言ってない」

「怪しい」

「怪しいね」

「珍しく即答」

「でも、それだけ」

「分かってます」

井口がアパートを見上げる。

「あと、あの部屋」

「何」

「パソコンと外付け、ありましたね」

「見えてたね」

「見えてただけ」

「そう」

「令状?」

「まだ早い」

「ですよね」

真帆のスマートフォンが鳴った。

画面を見る。

宮下恵子。

「はい」

『真帆ちゃん?』

「はい」

『昨日の人の名前、お父さん覚えてた』

真帆の足が止まる。

「何て名前ですか」

『杉原』

車が通り過ぎた。

『杉原達也って人』

真帆は井口を見る。

「分かりました」

『お父さんも話すって』

「今日、伺ってもいいですか」

『うん』

「ありがとうございます」

電話を切った。

「何でした?」

「十二年前の男」

「名前分かったんですか」

「杉原達也」

井口は手帳を出した。

「行きます?」

「行く」

「宮下家?」

「鉄工所」

真帆は車へ向かった。

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