新しい着信はなかった。

*

宮下家は、少しだけ古くなった印象だった。

門の横にあった植木は大きくなって、玄関のタイルには細いひびが入っていた。

その隣。

宮下鉄工所。

看板の文字が少し薄くなっている。

昔はもっと大きな工場に見えた。

紗季が居なくなってからは初めて来た。

一瞬の躊躇の後、インターホンを押した。

「はい」

女の声。

「水城です」

少し間があった。

「真帆ちゃん?」

その呼ばれ方をされたのは久しぶりだった。

「はい」

玄関が開いた。

宮下恵子は、真帆の記憶より小さくなっていた。

五十五歳。

髪に白いものが混じっている。

顔を見た瞬間、恵子は笑った。

「真帆ちゃん」

「ご無沙汰してます」

「ほんとに……久しぶり」

恵子はそこで、真帆の服装を見た。

笑顔が少し消える。

「仕事?」

「はい」

「……紗季?」

真帆は答えるまでに少し時間がかかった。

「少し、聞きたいことがあります」

「入って」

*

リビングもほとんど変わっていなかった。

テーブルだけ新しくなっている。

壁の時計。

食器棚。

棚の上の写真。

紗季がいた。

中学校の制服。

笑っている。

十二年前から年を取っていない。

「お茶でいい?」

「大丈夫です」

「コーヒーの方がいい?」

「本当に大丈夫です」

「そう」

恵子はそれでも麦茶を出した。

昔からそうだった。

いらないと言っても何か出す。

「警察になったっていうのは、お母さんから聞いてた」

「そうですか」

「すごいね」

「別に」

「紗季が聞いたら驚くね」

真帆は麦茶を一口飲んだ。

冷たかった。

「今日、山岸奈緒さんという方のことで来ました」

「山岸さん?」

「知りませんか」

恵子は首を振った。

「奈緒さん。十二年前は十七歳です」

「分からない」

真帆は用意してきた写真を出した。

原本ではない。

確認用に出された複写。

奈緒と紗季が並んでいる。

恵子の手が止まった。

「紗季」

「はい」

「これ……いつ?」

「いなくなる少し前です」

恵子は写真を手に取った。

「この人が山岸さん?」

「はい」

「知らない」

「紗季・・・さんから聞いたことも?」

「昔と同じ、紗季でいいわよ」

すこしだけ家の匂いを懐かしく感じた。

匂いを感じないほど緊張してたんだ。

真帆はそう思った。

「でも、聞いた事ないわ」

恵子は写真を近くで見ながら続けた。

「こんな服、持ってたっけ」

真帆も同じことを思った。

「奈緒さんの家に何度か泊まっていたようです」

「泊まってた?」

「はい」

「そんなの……」

恵子が写真から顔を上げる。

「知らない」

「当時の警察から聞いてませんか」

「何を?」

「山岸さんのこと」

「覚えてない」

恵子は額を押さえた。

「ごめんね。あの頃、毎日いろんな人が来て。何聞かれたかも、誰に何言われたかも……」

「大丈夫です」

「私、知らなかったことばっかりだった」

恵子は写真を戻した。

「友達の家にいるなら、なんで帰ってこなかったの」

真帆は答えなかった。

今、それを言える人間はいない。

「紗季、当時、家に帰りたくないって言ってたそうです」

恵子の顔が変わる。

「うちに?」

「はい」

「なんで」

「家族との関係が悪かったという話ではありません」

真帆は手帳を開いた。

「家の近くに来る男を怖がっていた」

恵子が動かなくなった。

「お父さんの仕事関係の人だと」

しばらく黙った。

「……いた」

「覚えてます?」

「うん」

「名前は?」

恵子は考える。

「顔は分かる」

「名前」

「何だったかな」

「お父さんの取引先?」

「そう。営業の人」

「何歳くらい?」

「若かった。三十前くらいだったと思う」

「紗季は、その人を怖がってた?」

「一回、言われた」

「何て?」

「学校の近くにいるって」

真帆は書く。

「他には」

「駅にもいたとか」

「それで?」

「私、お父さんに言ったの」

「おじさんは?」

「その人知ってたから」

恵子は唇を噛んだ。

「そんな人じゃないって」

「おばさんもそう思った?」

「……思った」

静かに言った。

「仕事で何回か会ったことあったし。普通の人だったから」

「紗季には?」

「気にしすぎじゃないって」

恵子が目を伏せる。

「迎えに行こうかとは言ったの。でもあの子、いいって」

真帆は手帳から目を上げた。

「その人が自宅近くまで来てることは?」

「知らなかった」

「もし知ってたら?」

恵子は答えなかった。

その質問には意味がないと思った。

十二年後なら、何とでも言える。

「名前、あとでおじさんに確認できますか」

「うん」

「お願いします」

恵子が頷いた。

真帆は手帳を閉じた。

帰るべきだった。

捜査として聞くことは、いったん終わっている。

でも立てなかった。

「おばさん」

「うん?」

「あの、紗季の携帯って」

恵子が真帆を見る。

「見つかってないですよね」

「うん」

「契約、どうしました?」

「契約?」

「番号です」

恵子はすぐに答えなかった。

「まだあるよ」

真帆は顔を上げた。

「え?」

「そのまま」

「解約してないんですか」

「してない」

「十二年間?」

「うん」

真帆は何も言えなかった。

「なんで」

聞いたあとで、聞き方が悪かったと思った。

恵子は気にしていない様子だった。

「帰ってきた時、使えなかったら困るから」

「でも携帯本体は」

「ないわよ」

「じゃあ番号だけ?」

「そう」

「毎月払ってるんですか」

「払ってる」

「ずっと?」

「ずっと」

恵子は少し笑った。

「馬鹿みたいでしょ」

「そんなこと」

「お父さんにも何回か言われた。もういいんじゃないかって」

「おじさんに?」

「うん。でも、番号までなくしたら、本当に帰ってこない気がして」

真帆は自分のポケットを見た。

スマートフォンが入っている。

「その番号」

「うん」

「今も同じですか」

「同じだと思う」

真帆はスマートフォンを出した。

履歴を開く。

紗季。

午前零時十三分。

画面を恵子に向けた。

「これ」

恵子が見る。

目を細める。

名前。

その下の番号。

恵子の顔から表情が消えた。

「何、これ」

「昨日です」

「昨日?」

「午前零時十三分」

「紗季から?」

「分かりません」

「でも番号」

「紗季の番号です」

恵子がスマートフォンを持った。

何度も番号を見る。

「これ、紗季のよ」

「はい」

「なんで?」

「分かりません」

「電話、出た?」

「出られませんでした」

「かけ直した?」

真帆は答えなかった。

恵子が顔を上げる。

「真帆ちゃん」

「まだです」

「なんで」

「……分かりません」

「かけて」

即答だった。

「今?」

「うん」

「おばさん」

「お願い」

真帆はスマートフォンを受け取った。

画面を見る。

発信ボタン。

昨日から何度も指を置いた場所。

「私の携帯からでもいいよ」

恵子が自分の電話を取ろうとする。

「待って」

真帆は止めた。

「私がかけます」

発信ボタンを押した。

呼び出し音。

一回。

二回。

三回。

恵子は身動きしない。

四回。

五回。

真帆はスマートフォンを耳から少し離した。

まだ鳴っている。

六回。

七回。

留守番電話に切り替わった。

機械の音声。

真帆は切った。

「出ない」

「もう一回」

もう一度かける。

同じだった。

「電源切れてないんだ」

恵子が言った。

真帆も気づいていた。

呼び出し音が鳴っている。

少なくとも回線は生きている。

「紗季、生きてるのかな」

恵子が言った。

十二年間、一度も答えが出なかった質問。

真帆は画面を見る。

「分かりません」

「でも電話が」

「番号から着信があっただけです」

「同じでしょ」

「違います」

少し強く言った。

恵子が黙る。

「すみません」

「ううん」

「まだ何も分からないです」

「そうだね」

恵子は写真を見る。

十五歳の紗季。

「でも」

「はい」

「初めてじゃない?」

「何がですか」

「十二年で初めて、あの子の方から何か来たの」

真帆は答えなかった。

*

宮下家を出ると、外は明るかった。

工場の中から機械の音がする。

昔と同じ音なのかは分からない。

真帆は車まで歩いた。

ドアを開ける。

乗らずに、その場でスマートフォンを見る。

履歴。

紗季。

その下に、今かけた二件が増えていた。

発信。

応答なし。

十二年間、一度も動かなかった履歴が、急に三件になった。

真帆は車に乗った。

エンジンをかける。

その時、着信が鳴った。

真帆は反射的に画面を見る。

井口。

「……何だ」

出る。

「はい」

『何だって何ですか』

「今運転するところ」

『宮下さんのお母さん、どうでした?』

「あとで話す」

『了解です。それで、こっちも一個』

「何」

『昨日の第一発見者』

「幸田さん?」

『はい。さっき所轄に連絡来たみたいで』

「何て」

『水城さんに話したいことがあるって』

「私に?」

『昨日は混乱してて言えなかったことがあるそうです』

真帆はシートベルトを締めた。

「内容は?」

『山岸奈緒さんのことです』

「それは分かる」

『盗撮されてたかもしれないって』

真帆の手が止まった。

「誰に」

『そこまで電話では言いたくないって』

「今どこ」

『店です』

「行く」

『俺も行きます』

「来て」

『珍しいですね』

「何が」

『今回は一人で行かせてって言わない』

「うるさい」

電話を切る。

真帆はもう一度だけ、紗季の番号を見た。

それから車を出した。

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