警視庁本部の夜は、静かではない。

外から見れば寝ているような時間でも、電話は鳴るし、誰かが廊下を歩いている。コピー機も動く。

水城真帆は机の上に広げた書類を一枚めくった。

防犯カメラの確認結果。

次。

関係者の供述。

次。

押収品の一覧。

「これ、昨日見なかった?」

向かいの席にいる井口亮が顔を上げた。

「何です?」

「この報告書」

「見ましたよ」

「じゃあ何でまた私のところにあるの」

「直しです」

「誰の?」

「俺の」

真帆は紙を置いた。

「自分で直せば?」

「直しました。確認してください」

「あんた、後輩って便利な言葉だと思ってるでしょ」

「思ってないですよ」

「顔が思ってる」

「顔で供述取らないでください」

真帆は赤ペンを持った。

井口は大学を出て警察官になり、五年目。

刑事になった理由を以前聞いたことがある。

『安定です』

即答だった。

『民間って会社潰れたりリストラされたりするじゃないですか。警察なら、よほどのことしなきゃ首にならない』

正義感は、と聞いた。

『あった方がいいですよね』

それでも仕事はする。雑ではない。逃げもしない。

真帆はそこを気に入っているのか嫌っているのか、自分でもよく分からなかった。

「ここ」

「何です?」

「『確認出来た』じゃなくて『確認できた』」

「そこ?」

「公文書だから」

「意味通じますよ」

「直して」

「はい」

井口が紙を引き取った。

「こういう仕事ばっかですね」

「刑事を何だと思ってたの」

「もっと犯人追いかけてると思ってました」

「たまに追いかけるでしょ」

「この前追いかけたの、三か月前ですよ」

「運動不足?」

「そういう問題じゃないです」

真帆は椅子にもたれた。

窓の向こうは暗かった。

桜田門の夜。

本部に残っている人間の数は昼より少ない。それでも誰もいないわけではない。重大事件が入れば動く。何もなければ溜まっている仕事を片づける。

今夜はまだ後者だった。

真帆は最後の書類を閉じた。

「終わり」

「俺の直し残ってます」

「それはお前の仕事」

「冷たいなあ」

真帆は机の下から鞄を引き寄せ、私物のスマートフォンを出した。

待機に入ってからほとんど触っていない。

ニュース。通販サイト。友人からのメッセージ。

不在着信、一件。

午前零時十三分。

表示された名前を見て、指が止まった。

紗季。

一度、画面を消しもう一度点ける。

紗季。

「……何これ」

名前の下に表示された番号下四桁を覚えている。

忘れるほど使っていないのに、覚えていた。

十二年前と同じ番号。

宮下紗季。

二つ年下。

小さい頃から家を行き来していた。

十五歳でいなくなった。

それきり。

真帆はスマートフォンを伏せた。

電話が鳴る。少し離れたところで誰かが取った。

何も変わらない。

もう一度画面を見る。

紗季。

「……徹夜で疲れてんだ」

「何がです?」

「独り言」

「まだ徹夜してないですけど」

「うるさい」

真帆は席を立ち、トイレに入った。

誰もいない。

蛇口をひねる。

冷たい水を両手ですくい、顔につける。

一度。二度。もう一度。

水が顎から落ちた。

顔を上げると、鏡の中の自分は思っていたより疲れていた。

「疲れてる」

小さく言った。

十二年前に失踪した人間から電話が来るわけがない。

ポケットからスマートフォンを出す。

履歴に残った紗季の文字は消えていない。

「……何なんだよ」

水滴が画面に落ちた。

指で拭う。

かけ直そうと発信ボタンに指を置いた。

「いや……そんなわけない」

聞いたことがある。

解約された電話番号は、しばらくすると別の人間に割り振られる。

その誰かが、たまたま真帆の番号を押した。そういうことだ。

そうでなければ困る。

真帆は画面を消し、紙タオルを取った。

ゴワゴワした紙で雑に顔を拭く。

「疲れてるだけ」

スマートフォンをポケットへ戻した。

*

仮眠室に入れたのは、それから少ししてだった。

上着を脱ぎ、靴を脱いでベッドに横になる。

スマートフォンを枕元へ置いた。

目を閉じ、すぐに開く。

もう一度閉じる。

紗季。

名前が浮かぶ。

小学生の頃、紗季は毎朝、真帆の家の前で待っていた。

『真帆ちゃん遅い』

『まだ間に合うじゃん』

『間に合うけど遅い』

『意味分かんない』

『早く』

二つ違いだった。

姉妹ではない。親戚でもない。ただ家が近かった。

真帆は勝手に、自分が姉みたいなものだと思っていた。

高校に入るまでは。

高校には高校の生活があった。

部活。友達。アルバイト。男。

紗季から連絡が来ても、

『今日無理』

『バイト』

『また今度』

が増えた。

最後のやり取りもそうだった。

『真帆ちゃん、話したいことある』

『ごめん。今日バイト。また今度聞く』

嘘だった。

バイトはなかった。

友人とカラオケにいた。

好きだった先輩も来ていた。

帰りたくなかった。

しばらくして『わかった』

数日後、紗季はいなくなった。

学校に来ていない。家にも帰っていない。友達のところにもいない。携帯もつながらない。

五日後。

道路脇から財布が見つかった。

学生証。

ハンカチ。

青い万年筆のキャップ。

真帆が中学の入学祝いに渡したものだった。

本体は見つからなかった。

携帯電話も。

紗季も。

真帆は目を開けた。

「……寝ろ」

スマートフォンには触らなかった。

そのうち少しだけ眠った。

*

「水城さん」

肩を叩かれた。

「起きてください」

「……何」

井口が立っていた。髪の右側だけ跳ねている。

「何時」

「朝です」

「見れば分かる」

「六時半過ぎ」

真帆は身体を起こした。

「殺しです。新宿で女性の変死」

靴へ手を伸ばす。

「所轄は」

「刑事課と鑑識はもう入ってます。検視も動いてます」

「本部要請?」

「来てます」

「被害者」

「山岸奈緒、二十九歳」

「発見は?」

枕元のスマートフォンを見る。

新しい着信はない。

*

車は井口が運転した。

「寝ました?」

「起こした本人が聞く?」

「寝てましたよ」

「何分」

「知りません」

「じゃあ分かんないでしょ」

「寝顔見ました」

「気持ち悪い」

「起こすためですって」

「被害者は?」

「山岸奈緒。二十九。第一発見者は同僚の幸田さん」

「同僚?」

「デリヘルです。昨日の十六時に出勤予定だったとか」

「発見が二時四十分って遅くない?」

「店からは夕方から何回も連絡してたみたいです。同僚が仕事終わってから家へ」

「合鍵?」

「はい」

「何で持ってるの」

「そこは本人に」

*

現場は繁華街から少し離れたマンションだった。

規制線。制服警察官。鑑識。所轄の刑事。

第一発見者の幸田は現場近くの警察車両にいた。

二十代後半。大きめのパーカーにスウェット。膝には毛布。両手に紙コップを持っている。

「本部の水城です。もう一度、確認させてください」

「……はい」

「山岸さんとは同じお店で?」

「山岸……ナナちゃん、そんな名前だったんだ」

「昨日は十六時から出勤予定だった」

「はい。でも来なかったんです」

「珍しい?」

「ナナちゃんは珍しいです」

幸田は紙コップを見ながら、「ナナちゃん、面倒見が良くてしっかりしてて……遅れたことないんです」

井口が手帳を開く。

「それで仕事が終わってから家まで?」

幸田はそんな井口を見て言った。

「分かりますよ。風俗嬢なんて、普通の社会で生きていけない人間の成れの果てだと思ってるんでしょ?」

「いや、そんな風には……」

「実際そうだと思います。時間には遅れるし、出勤予定はドタキャンするし、急に連絡取れなくなる子なんてしょっちゅうだし。その都度探してたら店側も回らなくなりますよね」

まるで行方不明事件だと思った。

昨日までいた人間が、急にいなくなる。

最初は探す。

それでも見つからなければ、どこかで区切りをつける。

私が十二年前から必死に思っていたことは、この小さな区画の中では気にするだけ無駄な話として処理されている。

「でも、ナナちゃんだけは……みんな好きだった」

幸田は少し笑った。

「いつも明るいし、時間は守るし。デリ嬢だけど、誇りが高くて好きだったの。新人の子が変な客に当たったら代わりに店に怒るし、お金はちゃんと貯めろって言うし、男に貢ぐなとか」

「でもナナちゃん自身は男見る目ないです」

笑いはすぐ消えた。

「だから彼女がブッチしたのが気になって来たんです」

「合鍵を持ってた?」

「はい」

「部屋に入って?」

「ナナちゃんって呼んで」

「返事がなかった」

「はい」

「それから?」

「そしたら……」

幸田は両手で顔を覆った。

「ナナちゃん……床に」

その先は出なかった。

*

エレベーターの中で井口が言った。

「俺、別にそんなつもりなかったんですけど」

「何が」

「風俗嬢だから適当だとか」

「分かってる」

「眉がちょっと動いただけですよ」

「顔に出るんだよ」

「刑事向いてないですかね」

「安定してるからいいんじゃない」

「そこ覚えてるんですか」

「警察になった理由が安定って言う奴、忘れないでしょ」

「大事ですよ、安定」

「でも覚えといて」

「何を」

「急に来なくなるのが珍しくない場所で、来ないことを心配された人」

真帆は扉を見る。

「山岸奈緒は、そういう人だったってこと」

*

五〇三号室。

山岸奈緒はリビングの床に仰向けで倒れていた。

首には索状の痕。その周囲に細い引っ掻き傷。

「うげぇ……」

「井口」

「すみません。死体って何回見ても慣れないですね」

「そんなこと言わない」

「え?」

「死体じゃない。ご遺体」

「本人、聞いてないですよ」

「聞いてるかどうかじゃないの。名前があるから」

真帆は奈緒を見る。

「山岸奈緒」

小田切に教わった。

『警察にとって百件目でも、家族にとっては一件目だ』

最初は綺麗事だと思った。

今でも少し思っている。

それでも守っている。

部屋は片付いていた。ただ奈緒の周囲だけが荒れている。

ラグ。クッション。倒れたローテーブル。離れた場所に転がるリモコン。

奈緒の爪には薄いピンクのネイル。一本だけ先が欠けていた。

「携帯は?」

「出てません」

「財布」

「あります。現金も」

「首を絞めたものは?」

「見当たりません」

寝室には段ボール箱が積まれていた。

一つだけ古い。

黄ばんだガムテープ。蓋が少し浮いている。

周囲の埃もそこだけ擦れていた。

「これ、最近触ってますね」

「そう見える」

鑑識に確認を頼む。

写真。指紋。箱の外側。

「ドラマならもう開けてますね」

「ドラマじゃないから」

「待つ時間長いですよね」

「仕事だから」

「安定してるなあ」

「意味違うでしょ」

やがて中身が一つずつ出された。

雑誌。

MD。

プリクラ帳。

使い捨てカメラ。

写真の束。

十代の奈緒。

友達。

ゲームセンター。

夜の公園。

知らない男。

知らない女。

一枚。

次。

次。

「……待って」

真帆の声が出た。

「その写真」

二人の少女が写っていた。

一人は若い奈緒。

その隣。

黒い髪。少し小柄。笑うと目が細くなる。

「水城さん?」

井口が写真を見る。

「知ってる人ですか」

真帆は写真から目を離さなかった。

「……紗季」

「え?」

「宮下紗季」

写真の裏には日付がある。

十二年前。

「誰です?」

「十二年前にいなくなった子」

真帆は言った。

「私の幼馴染」

写真の中で紗季は笑っていた。

真帆の知らない服を着ていた。

真帆の知らない場所で。

真帆の知らない女の隣で。

日付は、紗季がいなくなる少し前だった。

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