ティアゴ・ロドリゲス作・演出『Catarina and the Beauty of Killing Fascists』が、ロンドンのNational Theatreで英国初演を迎えた。2020年の初演以来、退席、野次、果物の投げ込み、舞台侵入まで起こした作品だ。

舞台は2028年のポルトガル南部。ある家族は独裁政権下で殺された実在の農業労働者カタリーナ・エウフェミアを記憶し、毎年一人のファシストを誘拐して殺す。26歳のカタリーナが初めて引き金を引く日、彼女は拒む。民主主義を守るため民主主義を破れるか、という問いが食卓へ落ちる。

怒らせる舞台より怖いのは、現実の方が過激になり、客が何も感じなくなる舞台だ。

暴力を選ばない主人公も、安全ではない

設定だけなら、殺さない若者が古い家族の暴力を止める物語に見える。だが作品は彼女を良心の勝者にしない。捕らえられた極右政治家へ発言の時間を渡し、その長い演説が観客の忍耐と自由主義を試す。寛容が権威主義の足場になる可能性を突きつける。

公開映像と複数の公演評から見える強みは、正解を配らない構造だ。暴力へ反対すれば無垢になれる、という観客の出口を塞ぐ。家族の儀式は恐ろしく、政治家の言葉も危険。どちらかへ安心して拍手できない。

欧州の騒乱を、ロンドンは咳で受け流した

ドイツ公演では終盤の演説中に観客が俳優へ物を投げ、舞台へ上がろうとした。ところがロンドン初日の反応について、GuardianとFinancial Timesは、空虚な笑い、沈黙、咳が中心だったと伝える。Timesは上演時間の長さと反復を厳しく批判した。

これは英国客が成熟していた証拠とも読める。俳優と役を分け、挑発へ暴力で答えなかった。しかし別の読みが重い。極右の言葉が日々のニュースで既視感を持ち、舞台の演説では驚けなくなった。作品が弱くなったのではなく、現実が先へ進んだ。

もちろん観客の静けさを無関心と断定はできない。沈黙は集中や拒絶でもあり、批評家数人の記述で客席全体を代表させるべきではない。だから評価すべきは感情の量でなく、作品がその曖昧さを終幕として残した点だ。

挑発は、反応の大きさで成功を測るな

二時間半、休憩なしという長さは、政治的緊張を持続させる一方、観客を疲労で遠ざける。退席や舞台侵入を宣伝実績のように語れば、怒らせた回数が作品の価値になる。ロドリゲスの狙いは騒乱の再演ではなく、客が自分の寛容を疑う時間を作ることのはずだ。

英国初演が静かだったなら、その失敗らしさも作品の現在である。憎悪表現に慣れた観客へ、さらに強い刺激を与える競争へ進むのか、それとも反応できなくなった身体そのものを見せるのか。後者の方が厳しい。

怒らせる舞台より怖いのは、現実の方が過激になり、客が何も感じなくなる舞台だ。『Catarina』がロンドンで受け取った咳と沈黙は敗北ではない。ファシズムを劇場の事件にできないほど日常化した、最悪の結末である。

出典・編集注記

National Theatreの公演情報、The Guardian、Financial Times、The Timesの2026年9月22日付公演評、Festival d'Avignonの公開映像と作品資料を参照しました。ロンドン公演はポルトガル語・英語字幕でDorfman Theatreにて9月26日まで。編集部は現地鑑賞しておらず、公開映像、公式資料、複数評に共通する舞台構造と観客反応を対象にしたレビューです。個別の演技や現場の空気を見たようには評価していません。画像は既存舞台美術や出演者を複製していません。

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